2007年07月16日
黒船

今回から、しばらくの間「下田」ネタで行きます。
21日の
フジテレビ「もしもツアーズ」
(18:30~19:00)では、
下田を取り上げる予定のようですので。このイーラ・パークも紹介されるといいのですが…
今回は、「黒船」
「黒船」とは、ピッチ(防水・防腐のための塗装)で塗装されると黒い色になり、このピッチで船体を塗られたヨーロッパからの船を中国やアジアの船「唐船」と区別しての呼び名です。
16世紀から17世紀までに日本には多数の黒船が来航しました。ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスなどです。
鎖国後は長崎の出島へのオランダの船のみとなりました。
1846年にアメリカ東インド艦隊指令長官ビッドル率いるコロンバス号 ヴェンセンズ号の艦隊が通商を開かせる目的で浦賀沖に来航しますが、目的を達成できませんでした。
第二陣としてその7年後にペリー率いる艦隊が、江戸港に来ました。
ペリーの艦隊は、2隻が蒸気船の旗艦 サスケハナ号・ミシシッピー号、残り2隻が帆船サラトガ号、プリマス号という4隻の艦隊でした。
サスケハナ号の名前の由来はわかりませんが、パソコンで変換すると「佐助花」となってしまうように、とても日本的な名前ですね。
当時の人々は「伊豆大島が動き出したような巨大な船」だったそうです。
当時の千石船が100トン程度だったそうですがその20倍以上あったそうです。
その当時、韮山の江川太郎左衛門が大活躍したのです。
「忍」の一文字で「いざ鎌倉!」のときに役立つ日々の勉強と倹約生活をしていたそうです。
開国を迫られた折、外人との折衝、そのために一張羅の紋付,袴を新調したそうです。
また、江戸に入ってこれないよう、反射炉で大砲を作り、今のフジテレビのある「お台場」に大砲のお台場を作ったのです。
今、気軽に使っている「右向けー右!、前ー倣え!」などの掛け声まで決めたそうです。
戦いの非常食として乾パンを日本で始めて作ったりもしたんですよ。
ともかく、西洋兵法伝授の最先端を総合的に実施したのですね。
手塚治の「青年の樹」にそのころのことが書かれています。
手塚氏のおじいちゃんもその当時西洋医学の最先端を行っていた方です。
では、今日はこの辺で…
Posted by A.S. at
22:26
2007年07月09日
下田港

下田市漁港は下田港に地方卸売市場下田市魚市場を開設し、きんめだいを主に年間30億円台の取り扱いをしている。
漁獲高は平成18年度には、年間総漁獲量 約3,296トン中 きんめだい2,459トンを扱っています。総漁獲高の約75%がきんめだいであり、さすがに きんめだい漁獲高日本一の漁港ですね。
そのほか、めだい215トン むつ28トン、いか33トン、いせえび33トンなどです。
資源管理がしっかりしており、捕獲された100g以下のいせえびを買い上げ、年間4万トンを放流しているようです。
(HPより)
資源保護もしっかり管理されており、さすがと感じました。
Posted by A.S. at
01:01
│Comments(0)